たなぼた紙工房

2026/07/03 17:00

文房具売り場の棚を滑ると、
微かに澱んだ紙の呼吸が聴こえる。
私は今日も一冊のノートを買った。
家には未使用の山があるのに。

レジを離れると急に罪悪感が湧く。
ノートを救ったのか、
浪費したのか、
自分でも判定できない。

帰宅し、表紙を撫でる。
ざらり。
まだ何も書かれていないのに
既に疲労の匂いがする。

最初のページを開く瞬間が怖い。
真っ白な空地が
「お前は何者だ」と詰問する。
私はペンを構えたまま硬直する。

ひと呼吸置き、
ページの隅に小さく日付を書く。
これでようやく他人行儀が解ける。
紙と私が同じ過去を持った。

ところが次の行で
ペン先が迷子になる。
技巧を凝らしたくなるのだ。
字を綺麗に、
文を賢そうに。

でもノートは黙っている。
緊張も見栄も
ただのインクとして吸い取り、
白を少しだけ灰色に変えるだけ。

私は観念して
今日の失敗を列挙する。
上司の機嫌、
駅の階段、
冷めたコーヒー。

ページが進むほど、
ノートは私を赦す達人になる。
行間が傷口を撫で、
紙粉が絆創膏の役をする。

それでも終わりは来る。
最後のページが近づくと、
別れの予感で胸が締まる。
私は急に丁寧な筆跡になり、
まるで遺書を書く人のようだ。

書き終えた瞬間、
一冊のノートは過去になる。
棚に積まれ、
背表紙だけが時効を待つ証拠品。

だが夜更け、
眠れずに灯りを点けると
その証拠品がこちらを見ている。
「つづきは」と目で促す。

仕方なく私は
新しいノートを探しにいく。
未使用の山は
さらに高く積み上がる。

ノートとは結局、
書けない自分を
永遠に書き留める装置だ。

ページを閉じても、
空白は次の表紙で甦る。
だから私は明日も書くだろう。
赦しを得るために。


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